今日は・・・・・・・・・
前回の記事の最初に断っていた
構図をシンプルにするために多少乱暴な一面的な方向からだけ の書き方をしますが
物事には
一面だけではない複雑なものも絡んでいますから
その分に関しての説明は 後日また書き加えて行きます、、、と書いていました
その・・・・・・・・・・・・・・
一面以外の部分を書きたいと思います。
それなりに繁盛していた塾を閉める という
かなり勿体無い(私らしい表現でスミマセヌ)大きな決断は・・・
伯母の面倒を見なければならない・・・・・
これが一番の理由ではあったのですが
何とかしなければならない!とずっと心にあった事ではあったのですが
(変な言い方ですが 早く決断しないと間に合わなくなると思っていた事です。
伯母はまだ痴呆が出たりもせずしっかり一人暮らしをしてくれていたのですが
でももし何かがあって 突然見送らなければならない目に遭ったら
「最後まで一人暮らしをさせてしまった、、」という悔いで苦しむ事を私は一番怖れていました)
夫の理解があったお蔭で 伯父が元気な頃もずっと
結婚後の恒例行事として
それまで
3ヶ月に1回は3泊4日で伯父伯母の福岡に帰省していました。
それがあの頃は・・・・・伯母は私がこの街に帰ろうとする時に
「淋しい。。」と弱音を吐くようになっていました・・・それが気掛かりでした。。
早く何とかしなければ、、、間に合わなかったらいけないと怖れていました。
ただ
その頃伯母はまだ身体的には元気でしたからなかなか決断できない事でもありました
よく仕事を辞めて 故郷の親の元に帰る人達がいますね。
あれを不思議だと言う人は多いと思います。
自分の仕事を捨ててが信じられない、、、と。
確かにそうですよね。
自分の人生を捨ててまで、、なぜ?と思いますよね。
それがその人にとってはごく自然な自分を活かす道なのだろうと思ったりします。
納得できる生き方がそれに行き着いたのだろうなぁと思ったりします。
私が前回書いた人生の総決算に近いような気持ちなのではないかなぁと思ったりします。
自分だけの価値観だろうけど でも自分の人生にとってケジメとして必要な判断。。
それに、、私の場合は福岡のあの馴染んだ町は懐かしい町でもあったのです。
私も 伯母を見ていたら、、
とても伯母をあの福岡の家から私の街に連れて来る事は出来ませんでした。
いろんなタイプの人間がいます。・・・・
私なんかは年取っても むしろルンルン喜んで知らない土地で暮らすタイプです
でも伯母は・・・・・熊本で生まれて福岡にお嫁に来て あの土地に住んで60年以上
近所との深い深い繋がりと伯母のあの家への思い、、
ここへ連れて来たら もうすぐに死んでしまうのではないか?
その土地で生きる事以外選択肢はない―― そうしか思えないそんなタイプでした。
だから
私が伯母と一緒に暮らすと言う事は ・・私が仕事を辞める事とイコール
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ではあったのです。。。
やはり、、、なかなか決断できない事でした
そんな時 丁度いろんな事がいっぺんに起こりました。
これが・・・・私がいつも思う
運命の声・神の導き という事です。
まず・・・
音楽教室を半年で出て以来
22年間借りていたビルの取り壊しが決定しました。
2つの教室の大きい方の教室の分です。
それまで4人の弁護士さんが分割して使っていた
共同弁護士事務所だった2F部分と
後に1Fの半分を借りていました。
うちの場合は教室でしたから・・分割の形を活かして分割して使えましたが
形が変則的だったために借り手がなかったようで
だから
安く貸してもらえた物件ではあったのです。。
・・・同じ広さを借りるとすれば・・・賃料
月額60万円以上になります。。
(それまでは半額よりちょっと安い程度で貸してもらっていました)
そしてまた、、これが結構大きな比重を占めていたのでもありますが
私の心の中で微妙な変化が起きていました。。
塾を始めて20年以上経つうちに
生徒は多少子供っぽくはなっていましたがみんな良い子ばかりでした・・・
が
お母さん方が変わったなぁ と思う場面が多くなっていました。。
昔の親達は・・
「先生の所で成績が伸びて良かったから~」・・と、、、
たくさんの友達を紹介してくれて、、、
みんなで良い事は分かち合おうの精神がありました。。
そんなみんなの後押しで
ワイワイやりながら塾が発展して来た歴史がありました。。
これまでも書きましたように
生徒の親達こそが塾の恩人 でもありました。。
ところが22年後は・・・・・・・・・・
成績が伸びるのは自分の子だけにしたい、、 ..........と
通っている塾名を内緒にする親 が増えてきました。。
気持ちは解るのですが、、ね。。イヤ確かにそう思う気持ちに納得はできるのですが
ある意味ありがたい事なのではあるのでしょうが
新入塾生のお母さんが面接の時に
「○○君のお母さんにどこへ行っているか訊いてもなかなか教えてもらえず
やっと、、調べて判ったのですよ。」 と言われる事が重なって、、、
・・・・・・・・・・・・・・ああ
昔の親は商売原理を解ってくれていたなぁ と、、懐かしくなってもいました
また
当時うちの塾は・・
進学校からの入塾希望は
基本断っていました。。
進度は公立の進度でやりますから・・と公言していました。
公立校の生徒を育てる・・が方針だったからです。。公立校の生徒を大切にしていました。。
(公立校の進度は進学校にとっては1年遅いです。
進学校の生徒も在塾していましたが それでも良いと納得した生徒だけが通っていました。
基本をしっかり教える事が役立っているようでした。)
そんな中
公立生でうちの塾で成績が伸びた生徒が・・・・・・
進学校の生徒達が多数在籍する進学塾に移る事態が何度か起こりました。。
そして 進学塾で成績が落ちて、、また帰って来たいと言う。。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・複雑な気持ちになりました。
勿論、、私だって理性では解っているのですよ。
短い受験生の時期に可能性は試したい。それは当然だと思います。
でもね、、
昔は・・・学校で1番になった生徒も何人も出しましたが でも誰もそんな事はしませんでした。
『進学校の生徒が在籍する塾が・・優秀な塾』・・・と考える親。。・・・
それを何となく感じて、、
私自身の本能が・・・・・
そんな親の
単純さ に
イヤ気が差してきていました。。
塾をやるには
その子の成績を上げたい!お母さんを喜ばせたい!・・・・・
それが私の最大のモチベーションだったからです。。
以上・・・・・3つが同時に起こった事が、、、、、
「塾は・・もうやめろという事かも知れない・・・」 と思いました。。
こんなにいろんな事が一緒に訪れたのは
次の形に行けという事かな? と
思いました。。
物事には潮時がある!やめ時 だと思いました。。
伯母の面倒を看なかったら一生後悔する!・・それだけは
『確かな事』だと思いました。
以上です。。流れは、、自然でしょ?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・でも、、普通はしない事だと、、思います
誰もが言ったのは・・やっぱり
「もったいない!」 でした。。。
まだまだ生徒は沢山いましたから、、、当然です。。。
でも 私はやっぱり魚なんでしょうねぇ~・・・
先がないかもなぁ~と漠然と感じていました。
周りがビックリする選択は・・もう車の件でご存知ですよね・・
誰も考えない選択をしてしまうのは・・・昔からです。。。
塾を閉めました。。
私は
専業主婦にも憧れていましたから、、、
パンフラワーや陶芸の教室に通いながら
毎月
10日を福岡で
20日をこの街で暮らす
穏やかな生活に入りました。
1年後に 本格的な介護が必要な日々になりました。・・・間に合いました。