まだまだ元気でしたが
伯母が84歳になった時に今後の事を真剣に考え始めました。
伯母は・・・以前にも書きましたように
日々 近所の人達や親戚との密な関係の中で生きていました。
それが伯母の生き甲斐だったのですからこの街に連れて来る事は羽をもぐようなものでした。
性格的な面からも地元から離す事は残酷な事だと思っていました。
だから
伯母の事を第一に考えるならば
私が仕事を捨てて福岡で同居するしか方法はありませんでした。
もう一人暮らしをさせて置くのは年齢的にどうかな、、と思いつつも
他の人の生活も掛かっている仕事の存在があまりに大きく
その決意は、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、なかなかできるものではありませんでした。
「伯母ちゃん、、いつまでも元気でいて!」と願うばかりでした。
ただ
私の中では弟の件がいつも大きく心を占めてもいました。
「もう少し様子を見て、、、」が 間に合わない事がある。
あの時も........仕事がブレーキだった。。。。。。。
人生には取り返しのつかない後悔がある。。
あんな思いは二度としたくない。。
正直、、、、、、
伯母の為と言うより自分の心の為に早く決断しなければと
.............そんな諸々 逡巡の日々でした。
そんな時に塾にいろいろな問題が発生した事は
神様が
そうしなさいと言っているのだと思いました。
誰の目から見ても
[有り得ない]と言われた前の塾の閉鎖は 私にとってはとても自然な流れでした。
1年間の塾を閉めるための準備は・・・・
私の
福岡への移住計画の準備期間でもありました。
(中・高と新1年生の入塾をストップした事で時間もできましたから)
これまでは
年に4回4日位の帰省だった分を
毎月1回一週間の滞在で
「この街で暮らせるかなぁ」 の実験を始めました。
1年続けて、、、、、、、、、、、、、
これは思いがけずなかなか決心ができるものではありませんでした。
塾を完全閉鎖してからも、、移住にはどうしても抵抗があって
それで、、、、
仕事は完全になくなりましたから時間の余裕はできましたから
月に10日~2週間の滞在という
この街と福岡との半分半分の暮らしをしながらグズグズしていました。
仕事のある夫との別居をする事でもありましたし伯母はまだまだ元気ではありましたから。。。
そんなある日の福岡で・・・・・・・・・
塾を閉めてちょうど1年 月に1回の福岡暮らしが3年目に入ろうとしていた頃でした。
毎回連れて行っていたわんの朝の散歩から帰って来た時
玄関を開けた途端に
「あ~~kimaさん 待っとった~」
奇妙な形に腕を曲げた伯母を見たのがーーーすべての始まりでした。
すべてはそこから始まりました。
骨折した伯母の入院生活・・・
入院ならばどこの街も一緒だからとこの街に連れて来ました。
退院後のリハビリを我が家から通って完治したらまた福岡に帰るつもりでした。
この間の事はやはりまだ書く事ができません。
とにかく言える事は
それからは、、あれよあれよという間の6ヶ月でした。
運命がどんどんどんどん進んでいきました。
いくつかの偶然と、いくつかの必然とが揃わないとできない事がいとも簡単に、、、
そして――私には苦い思いだけが残りました。
押し寄せるさまざまな出来事を TVと同じだとボンヤリ考えていました。
不埒にも 寝たきりだったら楽だろうなぁと思った事
腕ではなくて足の骨折だったら良かったのにと思った事もあります。
介護で一番恐ろしい事は・・・期限が判らない という事ではないでしょうか。
何年と言われたら頑張れるって事あると思います。
いつまで続くのか、、果てしなく続くと思われました。。出口の見えない日々でした。
そんな壮絶な日々がある日突然でした。
早過ぎた結果になった葬儀で伯母の身内から言われました・・・・・
「○○(伯母の名前)はkimanbaさんをとても大事にしていましたから、、、
kimanbaさんに苦労を掛けたくなかったのでしょう。。
kimanbaさんも孝行してくれました。。 ○○もあなたに孝行しました。。
・・・・・・・とても良い結果になりました・・・」
ホントにそうだと思いました。
私の幸せを一番に考えていた伯母が・・私にとって一番良い形を作って逝ったとしか思えませんでした。。
介護をせずに伯母が逝ったら、、私は後悔で苦しんだでしょう。
介護はさせるけど長くはさせない・・・伯母の意志を感じました。。
でもその上で、、、、、、、、、私は
家庭で介護はしない方がよい と書くつもりです。
内容にもよるでしょうが 痴呆が出た場合は特にいろいろな問題を孕んでいます。
介護したからこそ・・・きれい事ではないを実感したからです。。
とても難しい問題を一杯抱えたとても怖ろしいとても悲しい現実です。。。
介護の一番残酷な事は・・・
出会いたくない自分に出会ってしまうという事でした。。。
自分だけではなく、、、出会いたくない伯母にも、、、
見なくて済んだモノも見せてしまうという「不幸」を持ってくるところにある と思います。。
自分の苦しみの為だけでなく
相手の尊厳の為にも
しかるべき施設なり病院なりにお願いする方が良い、、、、、と私は思っています。
※昨日から驚く程の訪問者です。
以前 yokoさんにピックアッピブロガーで紹介していただいた時のようで
よければ鍵ででも教えていただけませんか?
この回でこの件は終わりにしたいと思いますから
少し長くなりますので初めてmore機能を使ってみたいと思います。
あの先日の友人に言って彼女が心当たりがあると言った事が
薬の事でした。
同じ箇所を再骨折した事での伯母の2度目の入院生活・・・
最初は付添婦さんを夜間だけお願いしていました。
でも交代のため朝病院に行くと、
大声を出す伯母と対面することになって行きました。伯母ではなくなっていました。
毎日、日ごとに変わっていく伯母に、その原因を・・・考えに考えて
薬・くすり・クスリ・ 薬ではないのだろうか?
眠らせるための
睡眠薬、精神安定剤、
なんだかそれらを服用するようになって呆け症状が出て来たように思えてなりませんでした。
人間こんなに短期間に呆けるか? という気持ちでした。
薬かどうか原因を突き止めるために実験しました。
夜間騒いだら、看護婦さんが薬を使うのは当然で付添婦さんもそうします。
『薬を飲まさない。』でどうなるかを観察するために私が24時間付添って、薬を遮断してみました。。
ここからは 微妙な問題で個人差もあるとは思いますが
人によっては
特に老人の場合は精神安定剤や睡眠薬は混乱をきたす場合がある、、との結論は得ました。
そして
本当に大変な人達には・・国はな~んにもしてくれない。。を知りました。。
元気な老人の為の介護保険制度でした・・・
介護施設で預かってくれる人は手の掛からない人です。全部に断られました。
昼夜逆転の伯母の日々
夜間が眠れないのに夜間の補助制度は全然ありませんでした。
痴呆がある場合は、何もしてくれない事に呆然としました。
この件に関しては・・・語る言葉は・・山ほど・・・・・あります