京都での友人達の集まりに出席する人の中に
NHK 仕事の流儀__1年半前に放送された人がいます。
在宅ホスピスの先駆者として
まだ在宅ホスピスの考え方がめずらしかった時代から30年近く
「人生の最後は自宅で穏やかに迎えたい」
末期がん患者の方々の切なる想いと向き合っての
昼夜なく往診に追われながらの
町医者としての日々の記録が1時間に凝縮された放送でした。
観ながら、、、、、私は母の事を考えていました。
スキル癌だった母は_発見された時にはもう手術も無理だと言われた末期癌患者でした。
(元気過ぎて病院と縁がなかったからこそ母は
身内に癌が多かった事から用心して6ヶ月に1回がん検診を受けていたのにでした)
妹はすぐに
「最近ホスピスというのがあるらしい。。苦しませたくない。」と言いました。
私は____________
「やるだけやってみよう」と言いました。
最終的には母が選択して積極治療が開始されました。
がんセンターに入院して最後まで治療していただきましたが
発見からちょうど6ヶ月後に亡くなりました。
あの時の自分の判断・・・・
治療はやはり壮絶でした。
あんなにも母を苦しませなければ良かったという悔いが私の中には残っています。
もし
今現在、自分の身に同じ事が起こったら
絶対治療はせずに痛みを徹底的に取って貰いたい
____________そうお願いすると決めています。夫にも言っています。
どうして闘わせてしまったのだろう。。という悔いが深く残っています。
と書く一方で
あれは、あれで良かった_という気持ちもあります。
私に似て(ホントは私が母に似てなのですが)
見栄っ張りで勝気だった母には_
最高の治療を受けたというその事実も大切だっただろうな、、と
婿(私の夫の事です)が奔走して
最高の治療の場を用意してくれた事がうれしかったようで、友人達に自慢していたそうです。
(聞く方にしたら、リアクションに困ったでしょうがね)
とにかく友人が多い人でしたが
見舞いもひっきりなしだった最初の頃はともかく、
途中からは
痩せた自分を晒すのがイヤで見舞い固辞の通達をみんなに送って貰って
見栄っ張りで勝気___そのままで
最期まで母らしくの選択でした。
仕事の流儀の中で記憶に残った言葉が____
「人間というのは、最期のその時までいろんな希望を持つことができる存在なのだと。
そういう人間理解が僕の根本にある。」